なぜノーベル賞を受賞したのか
青色LED開発の軌跡

●小山稔 著 ●定価(本体1500円+税)   

本書が、科学技術史に残る本当の青色LED開発記録です!


中村修二氏による青色LEDの発明を製品化し、
徳島の一企業を世界のトップに引きあげた技術者がいた。
本書の内容はすべて厳密な証拠に基づいており、
経営工学の生きた教科書でもある。



小山稔 著   著者紹介
なぜノーベル賞を受賞したのか
青色LED開発の軌跡
  プロローグ
     目次
     あとがき
     購入のご案内

本書が真実のすべてを語っている。
中村修二氏による青色LEDの発明を製品化し、
徳島の一企業を世界のトップに引きあげた技術者がいた。
プロジェクトの克明な記録、そして数々のドラマ。
これは経営学の生きた教科書でもある。


  • 四六判 並製
  • 274ページ
  • 定価(本体1500円+税)

  • ■著者紹介

    小山稔こやま みのる

    1934年生まれ。59年(昭和34年)、東京理科大学理学部化学科を卒業し、 スタンレー電気に入社。半導体技術課課長、技術研究所主任研究員を経て、 88年に副所長。この間、78年の世界一明るい赤色LED、黄緑色LEDの開発・ 実用化で実質的なリーダー役を果たした。93年1月スタンレー電気を円満退社。 2月1日、日亜化学工業に入社。技師長に就任し、半導体・LED部門の責任者となった。 93年11月、見果てぬ夢と言われた青色LEDの実用化を世界で初めて達成。 その後も、純緑色LED(95年9月)、青色レーザーダイオード(95年12月)、 白色LED(96年9月)と、世界を驚かす技術と製品を世に送りだした。 97年常務取締役。2001年3月、66歳で退任、顧問に就任した。 その後、顧問も退任。


    ■目次




    プロローグ――無名企業が成し遂げた世界的発明――7

    第一章 スタンレー電気、世界一へ――13
          易きから難しきへと向かう技術――14       フィラメントのないランプを求めた男――28       知恵のない者は汗を出せ――41       「金もうけより優先して考えるべきこと」――50
    第二章 青色LED前史――65
          見果てぬ夢――66       偶然にひそむ必然――77       光とともに歩みたい――81
    第三章 青色LED、発明を製品へ――93
          「開発部技師長を命ずる」――94       後発は不利ではない――107       「すばらしい! 久しぶりに感動し驚いた」――126
    第四章 販売戦略――141
          門前、市をなす――百聞は一見に如かず――142       信号機への応用は海外が先行――149       井戸を掘ってくれた人々――社外の協力――156
    第五章 異色の企業、日亜化学――165
          光明一途――166       世界的特許はいかに生まれたか――175       実在しない物にお金をもらうのは乞食だ――184       懐を痛めず、本気で研究ができるか――191       青紫色LDに賭けた人々――201
    第六章 日亜化学、世界のトップへ――211
          反対勢力現わる――212       リーダーは戦略的構想を示せ――220       研究開発と生産現場の差を意識せよ――229       幻だった中村修二プロジェクト・リーダー――237       才能は世界の桧舞台へ――243       日亜の急追、世界の巨人を動かす――250       変化することこそが、不変の真理――259
    あとがき――267

    参考・引用・文献リスト――270




    ■プロローグ



    プロローグ――無名企業が成し遂げた世界的発明
     四国・徳島空港から車で南へ三〇余キロのところに人口約六万の地方都市がある。 阿波の南に当たるところから名付けられた阿南市である。  日亜化学工業の本社は、阿南市の中心から西北西約五キロ、 那賀川の右岸から離れること一キロ、後方に低い丘を見る以外は 畑と田圃に囲まれた所にある。
     一九五六年(昭和三一年)の創業以来、「技術力尊重」をモットーに成長を遂げ、 業界では「蛍光体の日亜」として知られてきた。 蛍光灯やテレビのブラウン管に使用されている発光する原材料の蛍光体では、 実に世界の三五%ものシェアを有している。
     しかし一般にはまったく無名の一地方企業にすぎず、九〇年時点で 社員数四〇〇人ほど、売上高一九一億円でしかなかった。この化学系企業が突然、 熾烈な競争をくりひろげる電機業界という異分野に打って出た。
     そして、半導体とくに光エレクトロニクスの分野において、 専門家が二〇世紀中には実現不可能と見なしていた難しい課題を次々と 成し遂げてしまったのである。日亜化学工業という社名は、短時日のうちに 世界企業の仲間入りを果たし、日本の技術系中小企業の底力を示す好例ともなった。
     第一弾は、「青色LED、明るさ一〇〇倍――世界最高――一月から量産」 であった。九三年一一月三〇日付「日経産業新聞」の第一面の記事である。
     これは予想より一〇年早い出来事であったがゆえに、研究者や業界に 大きなインパクトを与えた。LED(発光ダイオード)は電気製品の電源表示ランプ などにたくさん使われ、明るいものは車のブレーキランプや踏切の信号機にも 利用されている。すでに赤色から黄緑色までは市場にあり、非常に暗い青色LEDも 存在していたが「日亜化学の発表」は桁違いに明るいものであった。
     第二弾は、青紫色レーザーダイオード(LD)の開発成功のニュースである。 これは大手新聞各社が九五年一二月一三日に大きく報道した。半導体に携わっている 専門家からは、青色LEDを成功させた技術力から「予想はしていた」という発言が 聞かれたが、これほど短期間で実現させた事実は、再び学者や研究者に 大きなショックを与えることになった。
     情報伝送用の光を出すのがLDだ。すでに市場に出ている赤色LDに比べて、 波長の短い青紫色LDであればDVDの記録密度を大きく上げることができ、 長時間記録ができる。それによって応用範囲も飛躍的に拡大する。
     第三弾は、九六年九月一三日の「白色LED」の発表である。この成果は、 白熱灯や蛍光灯といった一般光源の革新につながるものだ。
     一八七九年にアメリカのエジソンが発明した白熱電球は、一二〇年間、 人工光源として不動の座を占めてきた。しかし、この白色LEDは、 フィラメントのない、つまり断線の心配のない「固体光源」であり、 白熱電球に取って代わる最有力候補である。寿命ははるかに長く省エネにもなる。
     これら三つの成果は、オプトエレクトロニクス業界をはじめとして、半導体、 照明、信号、家電などの民生機器、通信機器、分析・計測機器、印刷機器など、 広範囲の波及効果と応用展開が約束されていると言っても過言ではない。
     これほど波及効果の大きな研究開発を、ローカルな徳島県の、そのなかでも ローカルな位置にある一私企業が達成したことは、まさに注目に値する。 技術の世界ではよく「イノベーション(技術革新)はマイノリティー (小企業、小集団)から」と言われるが、まさに、大発明が一地方の一つの小さい組織から 生まれたわけであり、この教訓がいまも確実に生きつづけている証でもあるからだ。
     アメリカの調査会社の表現を借りれば、「日亜化学の驚異的な技術ブレーク スルー以来、窒化ガリウムの研究は、世界中に燎原の火のように広がっている」。
     LEDの市場規模の拡大とともに、日亜化学自体も、この一〇年間に驚異的な 発展を遂げた。二〇〇二年度の総売上げは一二〇〇億円、社員数は二八〇〇人 となった。ともにわずか一〇年間で約六倍にもなったのである。
     日亜化学は非上場企業であるが、二〇〇二年度の決算書によれば、 一株一〇〇〇円当たりの配当金は、実に二五〇〇円である。もし上場したとすれば、 株価はいくらになるのか見当もつかない。いまや、それだけの高収益をあげる エクセレント・カンパニーなのだ。
     リストラ、不況と暗い話の多い今日の日本において、日亜化学はまさに 「光り輝く存在」であると言ってよい。この大成功をもたらした原動力は、 優れた研究者による研究と発明、優れた技術陣が抱える生産技術とノウハウ、 そして、優れた経営者による哲学に裏付けられた信念である。どれ一つ欠けても、 その成功はありえなかったと私は信じている。
     しかしその一方で、この研究開発をめぐってマイナスの事件が生じたことは、 すでに衆知の事実である。日亜化学は重い負荷を背負うことにもなった。 メディアで話題になっているように、カルフォルニア大学サンタバーバラ校教授・ 中村修二博士との間に、特許の権利と報償に関する問題が発生し、 現時点においてもこの裁判は継続中である。
     LEDに関する歴史、全般的な過程をふり返るとき、約半世紀にわたる 世界中の多くの研究機関や企業の研究者・技術者の知恵と汗が傾注されてきたこと に気がつく。また、経営者の哲学や決断力の大切さについても、十分に考慮せねばならない。
     何よりも特筆すべきは、この発光ダイオード(LED)の分野においては、 光の三原色、赤(Red)、緑(Green)、青(Blue)の世界最高レベルの発明が、 すべて日本の科学者や研究者によってなされ、かつ事業化も 大手の企業ではないところで達成された、という事実である。
     事業化という点で、奇しくも私はこの三つすべてに深く関わるという貴重な経験をした。 一九七八年のスタンレー電気による赤色の高輝度LED、九三年の日亜化学による青色、 次いで九五年の純緑色の高輝度LEDである。私はいずれも現場にいた。 当事者として、また未来の世代への贈り物として、歴史と背景を深く銘すべきと思い、 この書を記すことにした。

    ■あとがき



    あとがき  私が八年間お世話になった日亜化学工業は、歴史と自然に恵まれた徳島県阿南市に ある。東京生まれ、東京育ちの私にとって、そこはまさしく別天地であった。 吉野川、勝浦川、那賀川という雄大な三つの川を渡る道を懐かしく思い出す。 徳島空港から会社まで、この道を車で何度通っただろう。
     一九九三年二月から二〇〇一年三月まで、この地で青色LEDという世界的な光半導体 製品を立ち上げる機会にめぐまれた。定年間際の五八歳から六六歳まで、技術者、 技術管理者として、これほど幸せなことはなかった。
     入社当時の日亜化学は、徳島県の人々は別にすれば、一部の人にしか知られない 無名企業であった。ところがいまや、少なくとも技術系の人々にとっては、 日本を代表する超優良企業であろう。あるいは、日本よりも世界での名声のほうが 高いかもしれない。日亜化学をここまで飛躍させるお手伝いができたことは、 私の誇りである。
     引退して少したってから、私は自分の足跡をぜひ後世に残しておきたい と思うようになり、折にふれて原稿を書きためていた。そこには、三五年間勤めた スタンレー電気時代の内容も含まれている。
     約二年が経過した二〇〇二年の暮れ、西澤潤一先生の勲一等叙勲パーティーで、 久しぶりに白日社の松尾義之編集長と顔を合わせた。私の希望を伝えると、 松尾さんは「私こそ、小山さんに原稿を書いていただきたいと思っていたんですよ」 と言ってくれた。
     彼は『日経サイエンス』編集部時代に、中村修二君の解説論文を掲載する労を とってくれた人であり、また『赤の発見 青の発見』(西澤潤一、中村修二著) を世に送り出した人である。実は、私が自分の足跡を書き残しておきたいと考える きっかけの一つとなったのは、この『赤の発見 青の発見』であった。 天才と凡人は異なるが、凡人には凡人の生き方、哲学、方法論がある。そして 私には膨大なメモが残っていた。
     「小山さんの足跡を出版しないと、この、日本の科学史、技術史における 稀有の出来事、発見と創造の物語は完結しない」という松尾さんの声に励まされ、 どうにか書き上げることができた。鳴瀬久夫さん、白石厚郎さんと文殊の智恵を 発揮してくださり、本の体裁を整えることができた。
     本書を書くにあたり、後の世代にできるだけ正確な事実を残しておきたいという 思いから、わずかな部分を除いて実名を出させていただいた。迷惑をかけたり 名誉を傷つけることが本意でないことを、ご理解いただければ幸いである。
     また、記憶の誤りがないよう、私自身の過去の膨大なメモ記録を引き出して 確認し、参考、引用の文献にも再度当たったことも、申し述べておく。 主観の入っている部分は私の意見や主張なのでお許し願いたい。

     「光あるうちに、光の中で、光とともに歩む」をモットーに四三年間、 会社勤務をさせていただいた。しかし、そろそろ、その「光」の看板も 消灯する域に入って来た。

      三色の「光」造りて影と消え

    小山 稔
     二〇〇三年四月






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