改稿 湖南進軍譜

●田中英俊 著 ●定価2100円(本体2000円)  

大陸最後の大作戦と軍の命取りになった『戦争栄養失調症』



軍医が詳細に綴った 
陸軍野戦病院の現実。



田中英俊 著   著者紹介
改稿 湖南進軍譜
  はじめに
     目次
  あとがき
  
     購入のご案内

軍医が詳細に綴った 
陸軍野戦病院の現実。


  • 四六判  上製
  • 315ページ
  • 定価2100円(本体2000円)

  • ■著者紹介


    著者略歴

    大正10年4月 東京府豊多摩郡中野町中野(現、東京都中野区東中野1丁目)に生を享ける。
      本籍は婚姻による新戸籍編成まで鹿児島市田上にあったので、兵役に服したのは鹿児島である。
    昭和14年3月 東京府立第四中学校卒業。
    昭和17年9月 東京大学附属医学専門部卒業。
    同年9月 東京大学附属病院分院外科(現、東京大学第三外科)に入局。
    昭和17年10月〜昭和21年3月 医局在籍のまま陸軍に応召。
    昭和28年10月まで東大分院外科に在籍。
    同年10月 東京都豊島区椎名町(現、南長崎)に医院開業。
    平成14年4月 健康上の理由で医業を引退。現在隠棲中。



    ■目次




    改稿?湖南進軍譜─大陸最後の大作戦と軍の命取りになった『戦争栄養失調症』─目次 はじめに─1 前編 軍隊というところ─17 地方と軍隊/員数と要領/食事と要領 戦友とは/軍隊の教科書/軍人勅諭の暗誦 加給品/休日と衛戎線/被服甲類と毒ガス 内地屯営の食事/被服三種/完全軍装 戦闘訓練/整理整頓/学徒兵の受験勉強 軍隊の診断/隊付軍医の任務/練兵休 秋季大演習/父の長島/偵察機の空撮 分列行進/観兵式の参加資格 歩兵四十五聯隊だけの観兵式/軍隊手帳 私の軍務経歴/衛生部幹部候補生教育 軍医採用の四コース/軍医第一期教育・仮の階級 軍医第二期教育・北京第二陸軍病院/見習士官 短期現役軍医失格の経緯 医学専門部と陸軍士官学校 短現不採用/幼年学校受験不合格/不治の病 学校教練/甲種合格/森本大佐/挽回 陸軍二等兵時代からの戦友・K君のこと 軍医第三期教育・済南病院/病院軍医の仕事 壱等症と貳等症/第四野戦病院への転属命令 第二十七師団の野戦病院 後編 戦塵編─戦闘と医療部隊の任務と戦争栄養失調症─105 第一章 戦争と衛生─107 戦争栄養失調症/一号作戦とは 一号作戦開始前の戦況/第二十七師団 第二章 野戦病院編制─121 院長人事/組織と役割/即応体制/事件@ 将校殺人 事件A 麻薬中毒医/衛生材料 第三章 列車輸送─131 天津発の軍用列車/邯鄲駅   第四章 黄河大鉄橋を歩いて渡る─137 飯海軍医少尉/待機、そして出発 雨宿りと乾麺包/渡河待機 挽馬編制と代車/早朝の渡河 早すぎる宿営/代車部隊の遅れ 第五章 河南の進撃─155 危険な単独行動/一週間後追いつく ひまな野戦病院/野戦病院の機能   第六章 長台関の雨─165 豪雨/部隊長の出発/雨上がりの惨状 連絡途絶/虎の子軍団大損害 事件の本質 第七章 初めての野戦病院開設─175 駄馬編制/南船交通の実状 自動車道路造成/水浴び 病床日誌の大量作成   第八章 戦闘地区に入った野戦病院─185 山越え/正円の正体/患者護送 つわものの胆/顔面反射/空襲土産 曹家尖/危険な戦闘 町田支駐歩一聯隊第二大隊付軍医の証言 第四野戦病院の状況/開設命令 転進命令/護送患者の最期 戦死者と戦傷死者のちがい 出?、止?、輸? 「水を飲むと命がないぞ」 第九章 醴陵野戦病院、武運長久─211 分散する病室/地獄の一週間 完全包囲/患者も歩哨に/母の夢 朱欒三個/小銃漁法/製塩と新米 大半は戦病死/アメーバ赤痢 蝿の大発生/衛生部隊の便所 栄養失調対策 武運長久の五十七日間 激闘の跡 第十章 攸県野戦病院と栄養失調症─239 皇図嶺の戦闘/攸県の野戦病院 マラリア再発/軍医の半数も病人 虱が出ていく日/兵站線の機能不備 重症病棟 第十一章 出張、初年兵受領─253 擬装/衡山/サンパン船団 鴉鵲嶺/大山廟 第十二章 追及隊─261 幼顔の初年兵/長沙/失敗 衡陽/定期便の襲撃/肥だめ 第十三章 敗色?江作戦─273 宝慶/蒸気消毒/嵐部隊 第十四章 追及隊回れ右、湖南進軍譜─279 九江/湘陰/敵機 往復二千キロで目にしたもの 湖南進軍譜 第十五章 第二次追及隊─289 横口湾/手榴弾漁法 二日遅れの敗戦/野戦病院配属の初年兵 第十六章 捕虜─295 流言/常州野戦病院 本格的病院の開設/コレラ病棟 ?清療法 第十七章 帰国─305 残留依頼/ポツダム中尉 おわりに─313 付録 事実証明書 310/罹病証明書 311 前編 軍隊というところ


    まえがき



    はじめに

     私は第二次世界大戦に軍医として従軍した。参加した戦線は中国だった。
    そして中国戦線最後の大作戦であった一号作戦に、第二十七師団第四野戦病院付軍医
    として勤務した。その間には、一カ月近い敵軍の包囲を受けたりして、
    命の瀬戸際(せ と ぎわ)をも経験した。
    しかしこの戦(いくさ)はしょせん負け戦だった。
     私にはこの戦争に強烈な印象と記憶が残った。
    しかし戦後帰還し復員した後は、
    断片的な話をすることはあっても、まとまった一連の物語として戦争の話をすることはなかった。
     八年前の二〇〇二年三月、緑内障をわずらい、医業から撤退して余暇をもてた私は、
    そのとき『湖南進軍譜』と題して一書をまとめたのである。
    その時の序文の一部に次のような一節を載せた。

     ある時、家内が言った。
     「今、自分史を書くのが流行なんだって。ボケ予防になるんだって。書いてみたら。」
     でもボケ防止のためならこんな退屈な話はない。だいたい人に誇るに足るような生涯でもないのに、
    いつ、どこで、何したと書き連ねるなど何の意味もない。
    おまけに子供の時分から工作は無性に好きだったのに、文章を書くことにはとにかく抵抗があった。
    中学では特にひどかった。ある時の作文に「花下感あり」という題が出た。
    中学一年の心の中にそんな風情ある感の起こるはずもない。
    はずがあろうが、なかろうが、学校のテストとなれば書かねばならない。
    そこで無理して書いたのが落第点。
    以来作文の時間を忌避することはなはだしく、苦痛さえ感ずるようになったばかりか、
    私は文章がへたであると固く信ずるに至った次第であった。
    以上のようなわけで、ボケ防止の御利益ぐらいでは自分史など書いてみる気にもならなかったのである。

     ではなぜ、今頃になって私は作文嫌いと放言しながら従軍記など書いてしまったのだろう。
    それには妻や二人の子供達の要望があったことも一因ではあったが、
    やはり何といっても戦争という非情な体験が強烈な印象となって、記憶を支えていたためであろう。
     また従軍記とは自分史の一つの形ではあるとしても、
    とうてい並の自分史とは比較にならない衝撃的な戦争の描写でもある。
    この強烈な印象や記憶に任せてペンを走らせたのだが、なんとなく書けてしまったという感覚だった。
    気楽に書けたのは良かったのだが、七年経って見直してみると、
    意に添わぬ所が目立ってきた。もちろん私の文章や表現の至らなさによるのであるが、
    また読んでいただいた方々からのご指摘もあった。
    よってそれらを訂正すると同時に、初めの版では書き落とした話や、
    体裁を重んじて書きそびれた事件なども加えて、語るに足る記憶はすべて書いておきたいという気持ちで
    初版の修正を企図していた。
     さて私は二〇〇九年春になって入江泰志さんという方から、私の子息を介して一通
    のメールを頂いた。全文をご紹介しよう。

     私は第二十七師団衛生隊第二中隊(二九一三部隊)兵長入江浩の孫、入江泰志で
    す。私の祖父は、常州第四野戦病院でコレラで亡くなりました。同じ部隊の人に
    常州の事を聞いたり支駐歩兵三連隊の人に病院に入院した人に聞いたりしまし
    た。病院が立派だった事、台湾銀行があった事。その他の事は覚えていませんで
    した。お父様は勤務されていてアメリカ人が戦前、病院を経営されていた事など
    コレラ病院棟の事、とても大事な情報をありがとうございました。お願いしたい
    事があるのですが従軍のことをお話を聞かせていただけないでしょうか? 可能
    であれば自費出版したものや医学関係でだされたものを譲ってもらえないでしょ
    うか? 部隊史のような物があれば拝見させていただけないでしょうか? 事情
    があり六十年してから祖父の事をやっています。祖父の亡くなった第四野戦病院
    の方に会える事をねがってました。今まで集めた資料、写真も見ていただけたら
    幸いです。常州には三回慰霊に行ってきました。祖父をはじめ亡くなった人の慰
    霊としたい思います。よろしくお願いします。

     このメールを見て私は愕然(がく ぜん)とした。私はあの戦争はすでに六十年以上
    も前のこと、人の記憶に残ったあの戦争も残り少なくなった我等(われ ら)従軍
    経験者の消滅をもって、まもなく完全に歴史の中に組みこまれて埋没するものと
    信じていた。そして抽象化された文章だけが後の世まで残るものと思っていた。
     「そんなもんじゃない」。戦後の世界に生を受けた入江さんのメールは、はっきり
    私の考えを否定していた。今生(こん じょう)において相見ゆることのできな
    かった祖父に対する愛情に私は感動した。早速私はお会いすることにした。
     私が思ったとおりの好紳士にお会いできた。私は記憶の許すかぎり、彼の質問にお
    答えした。別れ際に彼は私に握手を求められた。御祖父をみとった私の手を確
    (しか)と握られた。温かい手だった。
     戦争はまだ終わっていないのだ。この世の常識ではとうてい理解できない形で、深
    い悲しみとしてご遺族の心の中に残っているのだ。入江さんは御祖父に纏(まつ)
    わる情報は何でも受け入れられた。本来ならば、伏せた方がよいような悲惨な話
    さえも厭(いと)われることはなかった。
     私はご遺族のお気持ちがよく分かった。私が『湖南進軍譜』を改稿して、伏せた部
    分、書き足りなかった部分、表現の足りない部分を補足訂正したかったのは以上
    のような理由によるものである。
     私も八十九歳を過ぎた。残された私の寿命は極めて短い。私は昔軍隊で教えられた
    「兵は拙速を尊ぶ」ということで急いで取り纏(まと)めた次第である。入江さん
    のような方がまだいらっしゃるかもしれない。しかし最早、口頭ではお伝えでき
    ないだろう。私はそのつもりで書き直した。

    著者 識



     



    おわりに

    おわりに


     この従軍記は序文にも記したとおり、自らの積極的な気持ちで書き始めたものでは
    なかった。六十年も昔の記憶を、人に聞いてもらえるような形で引き出しうるも
    のかどうか、はなはだ危惧したのである。一考しただけではほとんど不可能と思
    えたのだ。
     しかし失われているのではないかと思った記憶が、一度筆をおろして緒(いとぐち)
    を掴(つか)んだら、堰(せき)を切ったように次々に芋づる式に上がってきたので
    ある。
     この上がってきた記憶は、いずれも六十年の歳月という篩(ふるい)にかけられて
    も、なおかつ我が脳内にとどまっていたのである。経験は感情を伴う度合いが高
    いほど、記憶に残るという。戦争に恐怖や苦痛の体験が多いとすれば、記憶の篩
    に残った量も圧倒的に多かったはずである。しかしながら、記憶の篩に残った残
    渣(ざん さ)からはもはや恐怖や苦痛やその他諸々の感情は消え去っていた。
    残っていたのは抽象化された事柄だけである。ファウスト末尾の詩の一節に『過
    ぎ去ったものは「映像」に過ぎない』(相良守峯氏訳)とある。すでに恩讐を超
    えて六十年の風雪にさらされたこの戦争の記憶も、やがて生存者の消滅をもって
    終焉を迎えようとしている。ここに私は敢(あ)えて掉尾(とう び)の一石を投ず
    るものである。
     本書を上梓するに当たっては「はじめに」のような機縁があった。私は二〇〇九年
    春頃から、この仕事に取りかかったが、都合の悪いことに時を同じくして視力障
    害が再発した。今回は文字がぼやけて見えるばかりでなく、文字の縦行が重なっ
    たり、一部視野欠損があったりして本当に苦労した。おまけに難聴、脱力、よろ
    け等の老人現象も日常茶飯事となった。死神に捉らない中に早いところ仕事を終
    えなければ。私は焦った。ちょうど退却戦闘の心境だった。然し、私は逃げきっ
    た。そして終った。これは多くの方々御援助の御陰と心からお礼申し上げる次第
    であります。
     特に白日社の松尾義之様、鳴瀬久夫様には大変御面倒をおかけしました。私はその
    昔、學校(ガクカウ)、蝶蝶(テフテフ)、泥鱒(ドゼウ)、火事(クワジ)と
    国語を教えられた世代ですので、文章を書くには困惑致しました。そのため、私
    の文章を現代風に修正するのに、大変お手数をかけました。有難うございました。
     また、二男俊彦夫妻には自分方(がた)の忙しい公務の時間をさいて私の本作りに力
    を借してもらった。最終の校正作業にも加わってくれたので、眼も頭もボケか
    かった私には大変有難かった。心から礼を申します。

    二〇一〇年三月三日 著者識















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