走馬燈――方南ガッケ山の悪餓鬼、
    思いもよらず医者になる

●田中英俊 著 ●定価(本体2000円+税)  

瑞々しい戦前昭和の記憶



50年にわたって東京・中野区で開業医を務めた著者が、
過ぎ去りし戦前昭和の杉並の情景を生き生きと描き出した。
それは単なる個人史を超えて、国家・社会・時代、
そして、そこに生きた人々の営みを後世に残す
貴重な証言ともなっている。



田中英俊 著   著者紹介
走馬燈――方南ガッケ山の悪餓鬼、
   思いもよらず医者になる
  はじめに
     目次
     あとがき
     Amazon

50年にわたって東京・中野区で開業医を務めた著者が、
過ぎ去りし戦前昭和の杉並の情景を生き生きと描き出した。
それは単なる個人史を超えて、国家・社会・時代、
そして、そこに生きた人々の営みを後世に残す
貴重な証言ともなっている。


  • 四六判  上製
  • 382ページ
  • 定価(本体2000円+税)

  • ■著者紹介



    田中英俊(たなか ひでとし) 一九二一年東京都中野区東中野にて出生。三九年東京府立第四中学校卒業。四二年東京大学附属医学専門部卒業。東京大学附属病院分院外科入局。分院外科に在籍のまま、応召、陸軍軍医。五三年東京都豊島区南長崎に医院開業。二〇〇二年引退。



    ■目次




     走馬燈―方南ガッケ山の悪餓鬼、思いもよらず医者になる――目次   はじめに――1   第一章 高井戸時代 2歳―3歳――11       初めてのお使い/初めて見た葬式/我が家の幼児英才教育       怖いもの、嫌なもの/母も子も辛い/かき消された記憶   第二章 野方時代 4歳―5歳――29       野方の風景/中野駅発の乗り合いバス/大正末年の郊外の暮らし       中野のコロッケ、出前のカレー/ホヤホヤ/子供の納豆屋       「アサリ、シンジメー」/修理屋/豊島園開業/妙正寺川の田園プール       国技館の菊人形/船頭小唄/オルガンとラッパ       映画鑑賞会/火事/生まれて初めての大旅行、鹿児島行       ドンと五右衛門風呂/坂口家の人々/本籍地       母の里/再訪の後日談/田代村の食生活上下       指宿の民宿/大旅行の費用/入院/走馬燈   第三章 阿佐ヶ谷時代 5歳―9歳――87       へーちゃん/親父の失職/兄の遅刻届/薩摩おごじょ       孟宗竹のアンテナ/阿佐ヶ谷(二階から馬場や釣り堀が見えた家)       庭に風呂小屋/親父の再就職/臆病者/ありがたき大迫さん       最新設備の大迫家/ラジオ、オルガンそしてオウム       在京の親戚集合/なんでもかんでも大迫さん/千代子さんの結婚       小学一年生の入学式/一学期/初めての通信簿       阿佐ヶ谷(第二の家)に再転居/二学期/運動会の失敗       奉祝歌/杉七小新設/三学期/昭和四年四月――父帰還の恩恵       天長節観兵式/羽田海水浴場/小学二年生、学校ぐるみの引っ越し       二年二組/ニューだねー/甘い罠/成宗町へ引っ越し       辺見家のはじめ君/ひとり遊び/汽車の模型       工作仲間の関谷君/生涯の弱点/喧嘩と修身       方南町へ引っ越し決定/軍国調に傾く世相       愛国主義の白眉/「昭和の子供」/軍旗祭       昭和七年/世相の真実/都市ガス/「春の小川」も「どぶ」となり       便所と肥溜め/汲み取り有料化/日米決戦野球       よいとまけ/青梅街道の道路事情/三ツ半の火事   第四章 方南町の小学時代 10歳―11歳――181       三毛猫コロ/方南町第一日目(神田川)/方南町第二日目(大宮八幡)       転校生同士/五年二組の友人たち/トロッコ/健ちゃんと金ちゃん       孟宗竹大砲/矯正の始まり/児童百科大事典/新泉小学校と改名       大東京市の田園生活/神田川の堰落とし/岳東少年団       大越実先生/受験勉強(予習)/当時の中学校の格付け       日曜日の進学教室/畏友、森田勇君/小学校卒業       四中受験/兄、大学数学科進学/東京音頭の大流行       関東防空大演習/ロサンゼルス・オリンピック/皇太子誕生のサイレン   第五章 府立四中時代奮闘記 12歳―16歳――239     《第一部 天下の四中》       スパルタ教育/深井イズム/十二則・遺忘       三十六則・予習/関中/校門飛び込みゲーム/ゲームの達人       野球禁止/渾名/渾名の先生列伝/処罰       いくつかの事件/スパルタ教育の理由/及落と組編制       四修進学者/深井先生の退職/退職の深層       三事件/スパルタ教育の終焉     《第二部 四中・私の思い出》       入学式の訓辞/二日目の汚点/遠足での失敗       渡辺ゲバ先生の人徳/月謝事件/臨時試験       苦手の暗誦/苦渋の一年間/鼻づまり/眩暈       陸軍幼年学校の身体検査/不治の病/父親の落胆と愛情       体育は見学組/二・二六事件の時/どうにか三年生       石塚藤太郎先生/ベルリン・オリンピック/世の中は荒れ模様       盧溝橋事件の頃/高校受験/四中最終学年/飯島ゲーテ先生の名調子       大輝秀穂先生/学問の究極/造船科失敗   第六章 医学の道へ 17歳―20歳――327       新設の医専受験/受かったものの/始業式/授業料       授業開始/小川鼎三先生/いちょうのき先生/緒方知三郎先生       滝澤延次郎先生/佐々木先生の名講義/板倉先生の名講義       ノモンハン事件/帝国議会の見学と傍聴/厚生省の誕生       同級生のこと/太平洋戦争の開始チャイム/四カ月後には、東京初空襲       兵隊検査/親父が肺結核で死亡/八文字を胸に       卒業――東大分院外科の医局で一週間の研修/医専部一期生の戦死者       まあ、いいか   あとがき――379


    まえがき



    はじめに  私は二〇〇八年四月二十日をもって満八十七歳になった。
     随分と長生きしたものだなと思う。では、人間の感覚としては長いと思われる
    八十七年間に、私がこの世で見たものは果たして何だったのか。
     人は物事に接したとき、すぐに価値判断をするが、それでは走馬燈の影絵のよ
    うに一回りして消えてなくなってしまった生涯に人はいかなる価値が欲し
    いのか。太閤秀吉すら、死を前にして、この世を「夢のまた夢」と嘆じた。
    ゲーテ曰く、「すべての無常のものは、ただ映像にすぎず」(相良守峯訳『ファ
    ウスト、神秘の合唱』)。偉人、賢人でさえも生涯の業績は無常であるという。
     ではお釈迦様は何と言ったか。
     「そなたが気づいてよく知っているものは何であろうと―それは世の中における
    執着の対象であると知って、移りかわる生存への妄執をいだいてはなら
    ない」と(中村元訳『ブッダのことば』「スッタニパータ」(岩波文庫)より)。
    やはりお釈迦様も、そんな欲望は捨ててしまえ、と仰った。
     さて、それでは生涯の価値判断は諦めるとしても、折にふれて脳裡に去来する
    過去の映像を思い起こすとき、思わずにやりとすることあり、また腹を立てた
    り、悲しんだりすることもある。してみれば、当の本人にとって、過去の映像
    は価値判断の対象にはならないが、またとない宝物であると私は確信するので
    ある。
     まあ理屈は後から考えることにして、先ずは撮り溜めたビデオ映像を再生するよ
    うに、生涯(まだ未知の残部は未完のままだが)の記憶映像を再生してみよう。

     八十七翁


     




    あとがき

     私のこの話をお読み下さった方は少し変だ、理屈に合わないと思われたに相違ない。

     私は十五歳の時、陸軍幼年学校を受験して、慢性腎臓炎という病気で不合格にな
    った話を披露した。この病気は当時の医学水準では不治の病とされていた。森田勇
    君と同様に(第四章で紹介)。では現在なぜ私は八十七歳まで生き続け、このよう
    な文章など書いていられるのだろうか。それは森田君の慢性腎臓炎と私の慢性腎臓
    炎とでは、現在医学をもってすれば全く別物だったためである。現在ならば二人の
    病気にはそれぞれ別の病名がついたと思われる。このことは医学診断技術の進歩に
    よるものであって、当時の医療技術に責任があるのではない。

     それでは当時の学説を覆して生き残った私の病気の正体とはいったい何だったの
    だろう。それを知るためには現在の医学に立脚した説明が必要となるが、それは無
    理な相談というわけである。医者のくせに無責任だと言われそうだが、強いて話せ
    ば次のようなことになる。

     兵隊検査、入営、野戦勤務と続いた四年弱の軍隊生活では、自分の病気などを気
    遣っている余裕もないままに戦争は終わった。ある日思い出して自分の腎臓の検査
    をしてみたら、病的所見は皆無となっていたのである。戦争が腎臓病に効くはずは
    ないから、何らかのメカニズムで自然治癒したのだろう。物証のない犯罪の追求と
    同様に、現在検査のすべてが陰性であるならば自然治癒した過去の病態のメカニズ
    ムなど分かるわけはないのである。ということで納得していただくしかない。

     さて何のお蔭といえばよいのかよく分からないが、私の生涯のはじめの二十年を
    眺めると、運命の阿弥陀籤が随所に仕掛けられていたようだ。これを何とかくぐり
    抜けた結果、八十七歳まで生きてしまった。これを幸運というのだろう。

     ここで序文の趣旨に戻って、私の生涯の記憶、走馬燈を自分で見た感想は如何に
    と問われるならば、まるで封切り映画を見たような新鮮な感覚であったといえるで
    あろう。

     私の生涯は成功物語からはほど遠いものであったが、しかし退屈な物語を繰り返
    してみせられたという印象ではなかった。いやむしろ実人生よりも走馬燈の方がか
    えって面白かったかも知れない。

     まあ、理由は如何様にてもあれ、この八十七翁をしばし虜にし、夢中にさせてく
    れた走馬燈は、やはり私の宝物だったな。

     このたび本書を上梓するにあたり、白日社の松尾義之様と鳴瀬久夫様に多大のご
    助力を頂き心より御礼申し上げる次第です。

     また老齢の私を助けて諸々の雑用すべてを引き受けてくれた次男俊彦の苦労をあ
    りがたく感謝します。

     最後に心残りとなったのは、妻英子がこの本の完成を待たずに死亡してしまった
    ことだ。妻は一昨年十一月に脳内出血(視床出血)で入院し、一命は取り留めたも
    のの、昨年私がこの本を書き始めた頃から精神機能障害が顕在化し始めた。昨年五
    月末、この本のできたての草稿の一部を一応見てはもらったが、もはや感想は返っ
    てこなかった。明けて今年五月一日妻は死亡、六月五日に本書脱稿となった。この
    ような経過で仕上げた本書、その企画とはまるで正反対の痛恨事となってしまった。
    妻英子にも何か一言本の完成を知らせたいのだが、声の届かぬ彼方の岸に、一体何
    と叫べばよいものやら。谺でもいいから何か答えてくれないかなぁ。

     二〇〇八年十月















    白日社トップページに戻る